LOGIN老医官様は、逃げなかった。 逃げるような人ではない。 それは分かっていた。 分かっていたけれど、だからこそ胸が痛かった。 医療房の中央に、白木の机が置かれた。 いつもは薬草を広げる机だ。 苦い薬湯を調合し、傷を洗う布を畳み、熱を測るための水盆を置く机。 そこに今日は、証拠が並んだ。 薬箱。 薬包。 名捨て香が混じっていた包み。 使われた可能性のある空の包み。 香抜き湯の記録。 誰が、いつ、誰に、どの薬湯を渡したか。 医療房の帳。 そして、老医官様の手。 老医官様は、自分から手を机の上に置いた。 皺のある手だった。 薬草で染まった指。 何度も人の脈を取ってきた指。 血を止め、毒を見分け、傷を縫い、子供たちの熱を測ってきた手。 その手が、今日は疑われるために置かれている。「記録を始めてください」 老医官様が言った。 声はいつも通りだった。 静かで、怖い。 けれど、私は気づいた。 指先が、ほんの少し震えている。 老医官様も、人間だ。 当たり前なのに、私は今さらそれを思った。「老医官様」 蘭々が、長椅子から身を乗り出した。 膝の包帯がずれかけ、すぐ薬童に直される。「そんな、犯人みたいにしなくても」「蘭々」 老医官様は彼女を見た。「白家の罠は、信じている人を調べない時に開きます」「でも」
明霞姉様の簪から出てきた紙は、薄かった。 薄いのに重かった。 銀蓮の花弁の奥に、ずっと隠されていた言葉。『私を許さないまま、私の名を使ってください。 還名裁議の最初の証人に、私を置きなさい。 皇后様より先に。 白家より先に。 あなたを愛して使った私を、最初に裁きなさい。』 私はその紙を、何度も読んだ。 何度読んでも、最後の一行で胸が詰まる。 あなたを愛して使った私。 明霞姉様は、いつもそうだった。 優しい言葉の裏に刃を隠す人だった。 私に粥を食べさせながら、私を証人へ育てた人だった。 頭を撫でながら、逃げ道を計算していた人だった。 助けた。 使った。 愛した。 利用した。 全部同じ手でやった。 だから嫌いになれない。 だから許せない。「鈴花」 蘭々が、私の顔を覗き込んだ。 膝に包帯を巻いたまま、長椅子から半分身を乗り出している。「息してる?」「しています」「ちょっと止まってた」「止まっていません」「嘘。鈴花、嫌なもの読む時、息浅くなる」「よく見ていますね」「友達だから」 蘭々は当然のように言った。 その当然が、今は痛いほどありがたい。 白家は信頼を罠にした。 だから、誰かを信じるたびに少し怖くなる。 それでも蘭々は、友達だから、と言う。 疑われても、また戻ると約束した人の声だった。
青羅への返事は、すぐには書けなかった。 筆を持った梨花の手が止まる。 白瑛も、墨を磨る手を止めている。 蘭々は飴の袋を握ったまま、何度も口を開きかけて、結局閉じた。 月琴は包帯を巻いた指を膝に置き、苛立ったように爪先を揺らしている。 黒豆は、寝台の上でまだ眠っていた。 時々、小さく「炭じゃない」と寝言を言う。 そのたびに蘭々が「そうだよ」と返す。 寝ている子供に返事をする蘭々は、たぶん白家が一番嫌う種類の人間だ。 私は青羅の紙を膝の上に置いた。『白家の子は、何になればいいのですか。 罪人ですか。 被害者ですか。 証人ですか。 子供ですか。 人間ですか。 どれか一つにしてください。』 どれか一つ。 白家らしい言葉だ。 役目を一つにする。 名を一つにする。 迷いを削る。 痛みも、好きも、怖さも、全部削って、動きやすい形にする。 帳守。 香係。 炭。 鍵。 目。 耳。 手。 人間ではなく、役目にする。「一つにしたら」 蘭々がぽつりと言った。「楽なのかな」 誰も笑わなかった。 それは、軽い言葉ではなかった。 蘭々は自分の膝を見ている。 炭庫で打った膝。 包帯が巻かれている。「私、洗衣局代表って言われると、ちょっと楽な時あるんだよね。ただの蘭々だと怖
信頼を最後の封にした。 青羅の紙に書かれていたその一文は、薄い刃のようだった。 刺さっているのに、どこから血が出ているのか分からない。 蘭々なのか。 白瑛なのか。 景黎様なのか。 老医官様なのか。 皇帝陛下なのか。 母なのか。 あるいは、私自身なのか。 白家は、人を疑わせるのがうまい。 それも、ただの疑いではない。 疑うと罪悪感が生まれる相手を、わざと疑わせる。 信じたい人を疑わせる。 疑った瞬間、自分が少し汚れたような気持ちになる。 その汚れが嫌で、目を逸らす。 すると罠が動く。 嫌な仕組みだ。 実に白家らしい。「鈴花」 景黎様が紙を取り上げようとした。 私は反射的に押さえた。「まだ見ます」「もう十分見ただろう」「まだです」「顔が青い」「いつもです」「いつも青いなら問題ないと思うな」 景黎様の声が硬い。 怒っているのではない。 焦っている。 青羅の紙は、景黎様にも刺さっている。 信頼。 私たちが一番信じている人。 その中に第三封がある。 景黎様は、疑われる側にも疑う側にも立つ人だ。 皇弟。 死んだと思われていた人。 外朝に担がれかけた人。 そして、今は私の台車の横にいつもいる人。「景黎様」「何
青羅が消えた。 その報せは、火より早く後宮を走った。 内侍省の書庫番。 十五歳。 女として生まれたが、男装して内侍見習いとして育てられていた子。 白家の子の帳では、未覚醒。 けれど、赤紐を扱える可能性がある。 死帳の第二封を開く予備鍵かもしれないと見られ、保護されたばかりだった。 その青羅が、医療房へ移される途中で姿を消した。 残された紙には、こうあった。『第三封は、もう開いています』『還名裁議に、白家の名を入れよ。入れなければ、白家の子は全員、自分で名を捨てる』 白家の名を入れよ。 名を捨てる。 どちらも、嫌な言葉だった。 私はその紙を膝の上に置いたまま、しばらく見つめていた。 白い紙。 整った字。 筆の払いに迷いがない。 でも、最後の「捨てる」の一画だけ、少し力が強い。 怒りか。 恐れか。 あるいは、泣くのをこらえた手の震えか。「鈴花」 景黎様が、私の顔を覗き込んだ。「考える顔をしている」「考えないと困ります」「倒れる顔でもある」「それは別です」「別にするな」 私は台車の上にいた。 はい、台車だ。 もう説明するのも悔しい。 朝から老医官様に「寝台から出るな」と言われたのに、青羅失踪で医療房へ移され、今は医療房の奥にある小さな控え部屋で台車ごと固定されている。 固定されている、という言い方は嫌だが、実際、車輪に布が噛ませてある。 逃亡
行けない。 そう分かっているのに、体は勝手に動こうとした。 寝台の端を掴む。 布団を押しのける。 足を下ろそうとする。 その瞬間、母の手が私の腕を掴んだ。「鈴花」 母の声は、ひどく静かだった。「行けないわ」「蘭々が」「分かっている」「白瑛も」「分かっている」「なら」「行っても、あなたは穴の中へ飛び込めない」 言葉が刺さった。 分かっている。 分かっていることを、母の口から言われると腹が立つ。 でも、母の手は震えていた。 私を止める手が。 自分の娘をまた失うのではないかと怯える手が。「母さん」「怒っていいわ。でも止める」「……」「あなたが行って倒れたら、蘭々さんも白瑛さんも助ける人が減る。あなたはここで考えなさい。いつもみたいに、嫌なところを見つけなさい」 母は、私の腕を放さなかった。「私を嫌っていてもいい。許さなくてもいい。でも今だけは、母親らしいことをさせて」 ずるい。 そういう言い方は、ずるい。 私は歯を食いしばった。 胸の奥が熱い。 怖い。 蘭々が落ちた。 白瑛が落ちた。 死帳の第二封が開いた。 それなのに私は、寝台の上で何もできない。「鈴花さん!」 駆け込んできた下女が、さらに続けた。「景黎様が炭庫へ向かわれました! 老医官様も、







